


京都の近代化、そのリーダーを紹介していくと…・あなたの街の御出身かも?






この琵琶湖疏水は国家レベルの明治時代の大事業であり、しかも外国人の手を借りずに、日本人だけで作り上げた近代遺産。疏水関連施設は国の史跡に指定されています。
さて、この「琵琶湖疏水」を設計、総監督したのは、東京生まれの田邊朔郎という当時20代の若者。現在の東京大学工学部(当時は工部大学校)の卒業論文に「琵琶湖疏水」を取り上げ、それに目を付けた、京都府知事が田邊を呼んで、この大事業を任せました。この京都府知事の名は3代目の府知事「北垣国道」。この方も京都人ではなく、但馬国(兵庫県)の生まれで、幕末は勤王志士、幕府を倒そうと「生野の変」を興した人物の一人なのです。この京都人ではない、2人のリーダーを中心に琵琶湖疏水は明治18年着工、明治23年竣工(第一疏水)、その後、延長、そして明治24年には発電所からの送電も始まりました。
琵琶湖疏水がもたらした技術は、灌漑、上水道、水運、そして水力発電。この水力発電が全国初の電車(市電)を走らせたという経緯です。琵琶湖疏水の大事業はいくつもの苦難を乗り越えて完成しました。資金面、計画変更、犠牲者など、この二人の情熱がなければ、成しえなかった大事業なのです。京都市民は、今も、この琵琶湖疏水が命の水となっているのです。








明治の初め、学校教育、人材育成に貢献した人物は、八重のお兄様「山本覚馬」です。出身は、ご存じの通り会津。鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らえられ幽閉されます。処罰しなかった薩摩藩もナイスですね…というか山本覚馬の優秀さは知られていたようで、幽閉といってもVIP待遇だったとのこと。この幽閉中に、これからの日本の指針を書物にし、それが評価され、京都府顧問に任命され、明治初期の京都で大活躍していきます。
覚馬は晩年まで京都の経済界の重鎮になっていきますが、その間も自宅で講座を開くなど「人づくり」を生涯、続けた人物です。また女性教育にも力を入れ、女紅場の開校などにも尽力します。自分が購入していた土地を学校用地探しに苦戦していた新島襄に安価で譲渡し、同志社英学校の創立にも関わった話も有名です。
彼に学んだ人々が、やがて企業を興すなど、日本の近代化、経済発展に大きく飛躍していくことになります。幽閉されたころには既に視力もなく、足も不自由で故郷の会津には帰れなかった覚馬でしたが、自分が置かれた京都の地に愛情、愛着を抱き、京都経済人を沢山育ててくれた、それが京都の財産となっていったのでした。
その覚馬を京都府顧問として採用し、明治の初期の京都の近代化を確立させた府知事こそ、槇村正直です。彼は、長州藩士(山口県)で、木戸孝允の下で重用されていた人物。明治政府が天皇東幸後の京都の衰退を案じ、いい意味で力のある人材を京都府に着任させたとも言えなくもないですが、槇村は手腕を発揮し、経済、産業、教育、街づくりなど様々な施策を推進しいきます。我々が買い物をする歓楽街「新京極」の誕生も槇村の施策の一つです。その槇村を助けたのが、会津出身の山本覚馬であり、京都人の明石博高らでした。明治初期の京都、この長州出身の槇村府知事が築いた基盤が、冒頭にご紹介した次の但馬出身の北垣府知事にバトンタッチされ、琵琶湖疏水へと繋がっていきました。