風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
明治の京の近代化は「京都愛」ある地方人?!
明治150年記念の飲料商品
 今年は「明治150年」の節目で、全国各地でイベントや講座などで盛り上がっていることは以前にもお伝えしました。もちろん、京都も昨年の「大政奉還150年」から今年にかけて、幕末~明治のイベントや講演会が目白押しです。私もそのテーマで講義依頼が幾つかありました。ふと気が付き整理すると、京都の近代化のリーダーたち、実は京都人ではないことが目立ちます。各リーダーを支えていた京都人あってこその成功ではありますが、リーダーたちは、溢れんばかりの京都愛を抱いて、自分の仕事、責務を全うしていたということが伺い知れます。その人物と事業を今回はご紹介します。

 京都の近代化、そのリーダーを紹介していくと…・あなたの街の御出身かも?

琵琶湖疏水は「東京と但馬」の熱いハート
琵琶湖疏水 山科あたり
琵琶湖疏水 第一トンネル付近(大津市)
南禅寺境内 水路閣
蹴上浄水場
蹴上 琵琶湖疏水記念館あたり
 観光名所の一つ、南禅寺境内にある「水路閣」という赤レンガ造りの建造物をご覧になられた方も多いはず。テレビドラマのシーンでも、よく登場するロケ地でも知られます。これは琵琶湖からやってきた水を北部に流す琵琶湖疏水の分水路の建造物です。上は水が流れていて、現役です。

 この琵琶湖疏水は国家レベルの明治時代の大事業であり、しかも外国人の手を借りずに、日本人だけで作り上げた近代遺産。疏水関連施設は国の史跡に指定されています。

 さて、この「琵琶湖疏水」を設計、総監督したのは、東京生まれの田邊朔郎という当時20代の若者。現在の東京大学工学部(当時は工部大学校)の卒業論文に「琵琶湖疏水」を取り上げ、それに目を付けた、京都府知事が田邊を呼んで、この大事業を任せました。この京都府知事の名は3代目の府知事「北垣国道」。この方も京都人ではなく、但馬国(兵庫県)の生まれで、幕末は勤王志士、幕府を倒そうと「生野の変」を興した人物の一人なのです。この京都人ではない、2人のリーダーを中心に琵琶湖疏水は明治18年着工、明治23年竣工(第一疏水)、その後、延長、そして明治24年には発電所からの送電も始まりました。

 琵琶湖疏水がもたらした技術は、灌漑、上水道、水運、そして水力発電。この水力発電が全国初の電車(市電)を走らせたという経緯です。琵琶湖疏水の大事業はいくつもの苦難を乗り越えて完成しました。資金面、計画変更、犠牲者など、この二人の情熱がなければ、成しえなかった大事業なのです。京都市民は、今も、この琵琶湖疏水が命の水となっているのです。

田邊朔郎像
北垣国道像
人材育成・殖産興業には「会津と長州」
全国初の小学校開校 記念碑
京都市学校歴史博物館では小学校の歴史が学べる
女性の教育機関 女紅場跡 石碑
同志社大学今出川キャンパス
新京極に建つ 歴史を記す案内
 全国初の小学校は京都(ちなみに中学も幼稚園も)ということも、あまり知られていないかもしれません。明治2年に64校が開校しました。この話は長くなるので、何かの機会に保留ですが、京都人の気質といいますか、江戸時代から現在もそうですが「学ぶ」「教育」ということには、力を惜しまない土地柄です。「自由に学ぶ」という雰囲気は今もあります。

 明治の初め、学校教育、人材育成に貢献した人物は、八重のお兄様「山本覚馬」です。出身は、ご存じの通り会津。鳥羽伏見の戦いで薩摩藩に捕らえられ幽閉されます。処罰しなかった薩摩藩もナイスですね…というか山本覚馬の優秀さは知られていたようで、幽閉といってもVIP待遇だったとのこと。この幽閉中に、これからの日本の指針を書物にし、それが評価され、京都府顧問に任命され、明治初期の京都で大活躍していきます。

 覚馬は晩年まで京都の経済界の重鎮になっていきますが、その間も自宅で講座を開くなど「人づくり」を生涯、続けた人物です。また女性教育にも力を入れ、女紅場の開校などにも尽力します。自分が購入していた土地を学校用地探しに苦戦していた新島襄に安価で譲渡し、同志社英学校の創立にも関わった話も有名です。

 彼に学んだ人々が、やがて企業を興すなど、日本の近代化、経済発展に大きく飛躍していくことになります。幽閉されたころには既に視力もなく、足も不自由で故郷の会津には帰れなかった覚馬でしたが、自分が置かれた京都の地に愛情、愛着を抱き、京都経済人を沢山育ててくれた、それが京都の財産となっていったのでした。

 その覚馬を京都府顧問として採用し、明治の初期の京都の近代化を確立させた府知事こそ、槇村正直です。彼は、長州藩士(山口県)で、木戸孝允の下で重用されていた人物。明治政府が天皇東幸後の京都の衰退を案じ、いい意味で力のある人材を京都府に着任させたとも言えなくもないですが、槇村は手腕を発揮し、経済、産業、教育、街づくりなど様々な施策を推進しいきます。我々が買い物をする歓楽街「新京極」の誕生も槇村の施策の一つです。その槇村を助けたのが、会津出身の山本覚馬であり、京都人の明石博高らでした。明治初期の京都、この長州出身の槇村府知事が築いた基盤が、冒頭にご紹介した次の但馬出身の北垣府知事にバトンタッチされ、琵琶湖疏水へと繋がっていきました。

 京都の明治150年は、他府県から京都へやってきた、多くの人々の京都愛なくしては語れない、ダイナミックに変わった京都を振り返った、この一年でした。
プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き! にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ