


一度、このコラムで「京都の銅像」をテーマにご紹介した時に登場した、江戸中期の尊王論者・高山彦九郎。この人物は幕末の志士たちに大きな影響を与えた人物です。生まれは群馬県太田市。地元・太田市には高山彦九郎記念館、生誕地、遺髪塚などがあり、彦九郎の残した旅日記が記念館に伝わっています。




この銅像、初代は昭和3年に建造されましたが、戦争の金属供出によって昭和19年に撤去。のちの昭和36年に再建されました。尊王論を説いて全国を回っていた彦九郎は京都に入るたびに、この三条大橋のたもとに座り、御所へ拝礼していたと伝わります。
幕末の大混乱に至る前、その早い時期に幕府を否定し、王政復古、尊王論を説いた彦九郎の見識、その行動力に幕末の志士たちが敬意を表し、慕っています。その一例が長州の吉田松陰。京都には平安神宮の大鳥居の脇に松陰が詠んだ歌の碑が建っている程度ですが、その吉田松陰の「松陰」という名は、高山彦九郎の諱(いみな)「松陰以白居士」から名付けたという説もあります。







高山彦九郎は現在でいう四国と北海道以外、全国を旅して尊王論を説いて回り、久留米には3度来ているとのこと。3度目の訪問の時、友人・森嘉膳宅の離れで自刃してしまいます。理由は謎、47歳でこの世を去りました。その終焉地が残っています。友人宅があった辺りということでしょう。終焉地は古墳のようにこんもりとした盛り土がしてあり、キレイな献花がありました。地元の方がおそらく毎日、掃除して整備しているのだと分かります。
そして、終焉地から歩いてすぐの寺町にある真言宗・遍照院に彦九郎のお墓がありました。寺の境内の奥、墓地の入り口、広いスペースに国旗がかかった小さな建物があり、その向こうにお墓がありました。お参りをして、墓石の文字をまじまじと見ましたが、確かに「松陰以白居士」と刻まれていました。そして墓前には、先月、ご紹介した平野國臣が寄贈した石灯籠も。自刃の理由がはっきりとはしませんが、何かに嘆き、絶望した結論であるならば、その無念さや志、やり残したことがあったはず。それを吉田松陰、平野國臣を始め、幕末の志士たちが受け止め、世を変えようと奔走する。彦九郎はその魁で、そうした志士たちの心の拠り所だったと言えるのではないかなと…。幕末の志士たちが彦九郎の墓に参り、ここで誓った決心や心の迷いなど、彦九郎に打ち明けていたのかなと思うと、偉大な人物だなと改めて感じます。
墓地の奥には、その諱から名付けた茶室「以白庵」がある遍照院庭園もあります。日中は開放されているので、お墓参りの後には散策をして、彦九郎に思いを寄せてください。この庭園は高山彦九郎顕彰会が管理。また毎年、命日の6月27日には墓前で法要が営まれ、地元の方を始め、どなたでもご参列を!となっています。故郷の群馬から遠く離れた久留米ですが、こうして最期の地の方々にも親しまれている彦九郎。私の立場としては京都でも、もっと彦九郎を語り継がねばならないなと決意。三条大橋の彦九郎像の前を通るときには軽々しく「彦ちゃん!」と心の中で呟いている程度ではダメですね。一度、太田の記念館へも行き、また膨大な旅日記でも読んでみようかなと気持ちを新たにしました。久留米の滞在時間は短かったのですが、納得のお墓参りが出来、少しばかり立ち去りがたかったです。
という訳で今回は高山彦九郎を訪ねて久留米と京都をつないだ旅でした。