


京都「五山の送り火」
写真提供:京都市文化財保護課
京都の「五山の送り火」は有名ですが、実は四国・高知四万十市の中村でも旧暦の7月16日に「送り火」がなされていることは意外に知られていないかもしれません。単に真似をした訳ではありません。その縁には歴史的背景があり、京都のある公家一族によって、中村に伝わったものであるのです。今回は京都と中村を「送り火」を通して繋げたいと思います。


応仁の乱勃発の地

上御霊神社の鳥居

西陣にある「山名宗全屋敷跡」碑

京都市考古資料館前に建つ「西陣」の歴史を記す碑
「応仁の乱」が勃発した場所には現在「応仁の乱勃発の地碑」が建っています。
京都御苑の北にある相国寺(しょうこくじ)、そのさらに北にある上御霊神社(かみごりょうじんじゃ)の鳥居前に、その碑は建っています。
全国の守護大名らや将軍家が西軍と東軍に分れ1467年から約11年間にも渡って戦った内乱。西軍の総大将であった山名宗全(やまなそうぜん)の屋敷あたりに西軍の本陣が置かれ、そこから「西陣」となり、また、その地域の主要産業であった織物が「西陣織」と名付けられました。現在、その歴史を伝える「西陣」の碑が京都考古資料館前にあります。
そして長き戦乱は戦う武将だけの問題ではなく、庶民、そして貴族や公家たちにも大きな損失をあたえることになります。戦場となる訳ですから通常の生活はできない、当然ですよね。
その時代、摂政・関白・太政大臣まで務めた公家・一條兼良(一条・かねよし・かねら・1402~1481年)という天才学者がいました。「菅原道真の生まれ変わり」と言われるほどの人物であったことは当時の見識者や僧侶が認める所であったようです。
応仁の乱の時、この一條兼良は70歳に近く、最初は様子見していたようですが、屋敷や文庫(書庫)も焼け、京を離れざるえない事態となります。ゆかりの山科へ移った後、さらに奈良へと避難します。先に避難していたとみられる兼良の嫡子の教房(のりふさ)は父・兼良に奈良を譲り、自らは一條家の荘園だった中村(当時土佐幡多庄と言った)へと避難します。一條家は大家族であったため、一か所ではなく分散して避難したようです。こうした京の公家らの避難は一條家だけでなく近衛家や鷹司家なども同様でした。


中村にある「一條神社」
写真提供:(一社)四万十市観光協会

中村に伝わる「大文字の送り火」
写真提供:(一社)四万十市観光協会


京都御苑に建つ「一條邸跡」

東福寺塔頭「芬陀院」は一條家菩提寺

芬陀院の「雪舟庭園」
また一條家菩提寺である東福寺・塔頭「芬陀院」(ふんだいん)には兼良と画僧・雪舟の逸話が残されているので最後にご紹介します。
国宝「天橋立図」で知られる雪舟(1420~1506年)。雪舟は幼少時、涙でネズミの絵を描いたという話も残っています。一條兼良が18歳年上ですがほぼ同時代を生きた二人です。兼良は芬陀院に寄宿していた雪舟に「亀を書いて」と依頼。しかし、雪舟は一向に筆を取りませんでした。ある時、突然、庭へ出て石組みで亀を作り上げました。すると、夜な夜なこの亀が這って動き回り、困った寺の住職は雪舟に「何とかならないものか?」と相談すると、雪舟は亀の甲羅の部分に石を付き建てました。すると亀は、その夜から動かなくなった…という話が伝わります。
この話を聞いた兼良は、おおいに賞賛し、雪舟に一寺与えようとしたのですが、雪舟は、もっと絵の勉強がしたいと断り、兼良の支援を受けて明へ渡ったとのこと。その後、雪舟は生き生きとした絵を描くようになったので「亀に乗って明へ渡った」「渡明の亀」と称される話が伝わります。この石の亀がある現在の芬陀院の庭は「雪舟庭園」と呼ばれていますが、昭和に復元したものです。一條家の菩提寺である芬陀院に伝わるイイ話の一つです。
京都「五山の送り火」と、中村の「大文字の送り火」は戦火を逃れ、都を離れた公家の思いと歴史を今に伝えています。
ちなみに「五山送り火」の起源には諸説(平安初期説・室町中期説・江戸時代初期説)あるのですが、このタイミングで一條房家が実際に見て知っていた、聞いて知っていた、絵で見たことがあるいうことであれば「送り火」は少なくとも「応仁の乱」の頃には“存在していた”ということになりますね。歴史って面白い!