


狩野派の絵師として二条城、襖絵の修復に加わった河田
有名な坂本龍馬ですが、彼に影響を与えた人物たちにも興味がわきます。実際、会った人物、会ってはいないものの刺激を受けた偉人など、龍馬にとっての位置づけは、師とまで言わずとも様々。学識のある、自分の知らない、知り得たい情報を持っている人物が居ると聞けば、積極的に龍馬から近づいていったことは、足跡からも分かります。
今回は、あまり知られていませんが、龍馬に影響を与えた土佐山内藩家臣・土佐藩お抱え絵師である河田小龍(かわだしょうりょう・しょうりゅう1824~1898年)のお話し。


高知市の河田小龍の画塾「墨雲洞」の跡付近(写真提供:(財)高知市観光コンベンション協会)
その後、長崎で異国の文化に触れ、土佐に戻り、画塾「墨雲胴」を開き、絵や学問を教えていました。そんな河田に大役が…。
またもや吉田東洋から「約10年ぶりにアメリカから日本に戻ったジョン万次郎の取り調べをするように」との命が河田に下ります。

河田が取り調べをしたジョン万次郎銅像。土佐清水の足摺岬に海に向かって建つ(写真提供:(財)高知市観光コンベンション協会)
さて、河田と万次郎の取り調べ。10年も日本を離れ、日本語を忘れていた万次郎とのコミュニケーション、それが「絵」でした。吉田東洋は、言葉の壁があることを見据え、意図して絵の描ける河田を任命したのでしょう。ジョン万次郎から聞き出し、河田がまとめた調書は「漂巽紀略」(ひょうそんきりゃく)として藩に納められました。ちなみに吉田東洋は、後に公武合体推進の中心人物として藩に尽力しますが、土佐勤皇党によって暗殺されます。
そして河田は万次郎の取り調べという大役を終え、そこで知り得たアメリカの話を塾でも語ります。世界情勢から我が国を考えると、鎖国からの転換、これからの国の在り方が正確に見えていたことでしょう。
そこへ現れたのが龍馬。河田からアメリカの現状、この国の在り方、河田からの意見を聞いたのが、坂本龍馬という訳です。当時、その情報がいかに最新であったかは龍馬の素早い行動力からも分かります。龍馬は日本が国として落ち着いた、その先に、世界を相手にした商売・貿易を見ていたのでしょうね。河田との世界の話は刺激だったと思います。龍馬がもし、暗殺されずに、長い生きしたら、貿易で大儲けしていたことでしょう。
そして、河田はその後、藩政の手伝いや自分で事業を興したりしますが、失敗し、苦労します。


琵琶湖から京都へ、琵琶湖疏水・第一トンネル洞門(滋賀県大津市)

河田の記録画が展示されている琵琶湖疏水記念館(京都・岡崎)
それは維新後、政治の中心が東京に移り、衰退した京都の街の活性化、近代化をはかろうと第三代京都府知事に着任した北垣国道が琵琶湖疏水の建設を始めます。北垣は、京都府知事着任直前まで、高知県令を務めていました。その縁もあってでしょう、琵琶湖疏水の工事の進行、疏水沿岸の記録を「絵」で残すために高知から河田を京都へ招きます。疏水工事の様子を河田に描かせたということです。それをまとめたものが「琵琶湖疏水工事写生帖」。写真がまだ主でなかった時代、河田の絵が、万次郎の取り調べと同様、記録画として価値を残したということになります。河田とともに田村宗立という京都の絵師が描いた「琵琶湖疏水工事図絵」は明治天皇に説明する目的で描かれたと言われています。

河田小龍 筆「聖護院村工事」明治22年(1889年)末頃に描かれた夷川船溜の工事の様子(写真提供:京都市上下水道局)

河田小龍 筆「河東工場全図」明治22年(1889年)末頃に描かれた鴨東運河の工事の様子(写真提供:京都市上下水道局)

京都・北区の等持院に眠る河田小龍
時代の大きな渦の中で、河田は江戸幕府の二条城に触れ、ジョン万次郎に世界を聞き、龍馬を刺激し共に国の未来を説き、京都の近代化を記した、普通の絵師とは違う足跡を残しました。一般には地味で目立たないかもしれませんが、私にはカッコイイ偉人です。