風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
私が秘かに慕い尊敬する、幕末の真のヒーロー・梅田雲浜(2015年11月1日)
 

小浜市中央児童公園に建つ「梅田雲浜像」
写真提供:小浜市教育委員会文化課
 “どういう立ち位置” のヒーローか? という事はさておき、学校のクラスや会社の部署には何かにつけての中心人物、目立つキャラは必ず一人はいるものですよね。いわゆるヒーローです。ヒーローはカッコ良くて人気があって、それなりに女性にモテます。私はどうも、その手の存在が苦手で、2番手、3番手のヒーローの舎弟、ヒーローの引き立て役、対抗する影の実力者、能あるタカは爪を隠す的な男性に惹かれてしまいます。それゆえに友達と好きな男の子が被ったことが殆どありません。大抵は女の子には評判が悪く、男の子には慕われている、そんな男の子がタイプでした。歴史を学ぶようになっても同様の意識が抜けず、どうも気になる人物が(世間的には)地味で目立ちません。名を挙げても知らない人も多くて、話が膨らみません。幕末の龍馬や新選組、晋作、松陰などよりも、むしろ、平野国臣、佐久間象山(当コラムで紹介済)、横井小南、橋本佐内、そして今回紹介する梅田雲浜などが私の秘かなヒーロー。皆が知っているヒーローに影響を与えた “真のヒーロー” の生き様と死に様に、どうも興味が向かってしまいます。一般的には「それ誰?」ですよね… 他の媒体では取り扱っていただけない歴史上の人物を堂々と紹介できるのが、この「京都物語」です。

 さて今回は福井県(小浜藩)の幕末の志士、梅田雲浜にスポットを当てます。

雲浜の生涯こそ、明治維新への第一歩
 

1815年、現在の福井県・小浜市に梅田雲浜は誕生。生まれ育った小浜の海辺が「雲の浜」と呼ばれていたことから号を「雲浜」とした
写真提供:小浜市教育委員会文化課

現在も人影が少ない京都・一乗寺の葉山観音。一時、この境内の小屋で雲浜の家族は暮らした

京都・一乗寺の葉山観音近くに建つ旧跡碑
 先月、京都では「時代祭」が行われました。時代考証された衣裳を身にまとい歴史上の人物に扮した人々が、都大路を練り歩くお祭りです。龍馬、晋作、松陰らと共に肩を並べて列におられる、梅田雲浜(うめだうんぴん)は、今年、誕生200年。錚々たる幕末のヒーローたちの中に雲浜の勇姿があるのは、嬉しいのですが、あまり注目はされていないようで…。ご存じない方もおられると思うので、簡潔に紹介させていただきます。

 梅田雲浜(1815~1859年)は若狭・小浜藩士、幕末の儒学者で尊王攘夷のさきがけと言われる勤皇の志士です。号の「雲浜」は、ふるさと小浜の海辺を「雲の浜」と称してきたことに因んでつけたとのこと。京都や江戸で遊学後、大津に「湖南塾」を開校。その後、京都で「望楠軒」の講主として活躍しますが、38歳の時、藩に海防政策を説き、それが理解されず藩籍を除かれて浪人となります。京都では転居を繰り返しながら過ごします。そして、ペリーの浦賀来航を契機に、江戸、水戸、福井、長州など全国へと奔走し、勤王論を説いて回わり、尊皇攘夷の先頭に立ちます。後に捕らわれる「安政の大獄」までの15~16年間、京都を拠点に活動。各地への遊説や交流により、各藩の志士たちに大きく影響を与えていきました。維新への道の第一歩を切り開いた偉人の一人と言えます。

 難しい話をするのも何ですが、雲浜の思想は完結に述べると、

●開国の要求に屈すると日本は国家の威信を保てない(条約反対)
●孝明天皇自身が攘夷論なのだから、従うべき
●攘夷実行のためには幕府をこれに従わせなければならない

 そうした外交問題が危機迫る中、14代将軍継嗣問題も同時に起こり、雲浜の周囲は次第に慌ただしくなります。雲浜を慕う志士たちの出入りも激しく、幕府に目を付けられてしまいます。それでも、雲浜は堂々と意見書を青蓮院宮に提出するなど、幕政を厳しく批判。そして大老・井伊直助が厳しい弾圧を決行、いわゆる「安政の大獄」です。雲浜は、その最初の捕縛者となった人物、激動の時代を駆け抜けました。取り調べを受けながら、京都から江戸へ護送され、約1年の牢生活の末、江戸で病死、45歳の生涯を閉じました。ちなみに吉田松陰が雲浜の救出計画を企てた(未遂)とも言われています。

雲浜のもう一つの魅力とゆかりのスポット
 

現在も交通の要所である京都・烏丸御池の交差点に雲浜の最後の住まいがあった。それを示す石碑が建つ

京都・安祥院は「日限地蔵」も安置されている

雲浜の墓は江戸・京都・小浜と3カ所に。写真は京都の「安祥院」の墓地にある「雲浜先生之墓」。妻と息子も同寺で眠っている

雲浜8才で入学した藩校「順造館」の正門は現在、福井県立若狭高校に残る
写真提供:小浜市教育委員会文化課
 ざっと経歴を述べましたが、全国へ奔走しながらも、京都に窓口を置いて、長州と上方との物産取引で商いをしていたこと。その利益を活動資金に当てており、学者でありながら、商人の才もあった点が雲浜の魅力の一つでもあります。また愛国心も篤かったのですが、家族を困窮させ、苦労をかけた分、愛情も深かったようで、29歳で病死した愛妻・信(信子)の位牌を小箱に入れ、肌身離さず持ち歩いていたと伝わります。また信(信子)も雲浜を理解し、尽くした才女だった逸話も残っています(逸話は裏が取れなかったので、ここでは紹介しかねます)。

 さて、そんな雲浜の京都のスポットは幾つかあります。37歳の頃、雲浜は病気にかかり、生活が困窮。現在の高雄、そして一乗寺の葉山観音の小屋で細々と暮らしたとあります。その一乗寺の旧跡地は現在も観光客も少なく、寂しい場所にあり、大正時代に建てられた碑がひっそりと建っています。

 そして、点々とした京都の最後の住まいとなる、現在の烏丸御池東側(国際マンガミュージアムの向かい側)に、「梅田雲浜邸址」の碑があります。ここは現在でも要所ですが、当時も各藩邸が周囲にあり、物流の盛んな木屋町にも近く雲浜の活動として頷けます。それゆえ余計に志士たちの出入りも目立ったのかもしれませんが…そして清水寺への参道、「日限地蔵」で知られる「安祥院」に雲浜の京都のお墓があります。(墓は東京・小浜にもあります)この寺に実は愛妻・信(信子)と長男も眠っているのです。

 一方、写真で順次紹介していますが、ふるさとの小浜にも地元の偉人を称え、雲浜のゆかりのスポットが幾つか点在しています。生誕地には碑が、8才で入学した藩校「順造館」の正門は現在、県立若狭高校の一角に残り、面影を伝えています。

雲浜、生誕200年記念イベント
 
 冒頭で述べたように、今年は生誕200年。それを記念し地元の小浜市にある‘県立若狭図書学習センターでは、11月13日(金)~15(日)に「梅田雲浜生誕200年記念特別資料展」が開催。また東京の明治大学リバティアカデミーでは福井県との連携で、11月28日から全4回「福井の偉人群像~明治維新から150年を前に~」が開講されます。その偉人の一人として挙げられ「勤皇の志士 梅田雲浜~生誕200年~」という内容の講義があります。講師は子孫の梅田昌彦氏。雲浜の功績、生き様、その後の影響力のお話しが聴けますので是非。

 今回、ご紹介出来ませんでしたが、今度、東京・台東区ある海禅寺の雲浜のお墓参りに出かけてみます。そして機会があれば、小浜の海、「雲のような浜、どんな風景かな?」と思い描きながら、福井を旅してみたいなと思っています。

 皆様も、この人こそ “真のヒーロー” と思う歴史人物の足跡を調べて旅へ出てみませんか?

プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き!にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ