


小浜市中央児童公園に建つ「梅田雲浜像」
写真提供:小浜市教育委員会文化課
さて今回は福井県(小浜藩)の幕末の志士、梅田雲浜にスポットを当てます。


1815年、現在の福井県・小浜市に梅田雲浜は誕生。生まれ育った小浜の海辺が「雲の浜」と呼ばれていたことから号を「雲浜」とした
写真提供:小浜市教育委員会文化課

現在も人影が少ない京都・一乗寺の葉山観音。一時、この境内の小屋で雲浜の家族は暮らした

京都・一乗寺の葉山観音近くに建つ旧跡碑
梅田雲浜(1815~1859年)は若狭・小浜藩士、幕末の儒学者で尊王攘夷のさきがけと言われる勤皇の志士です。号の「雲浜」は、ふるさと小浜の海辺を「雲の浜」と称してきたことに因んでつけたとのこと。京都や江戸で遊学後、大津に「湖南塾」を開校。その後、京都で「望楠軒」の講主として活躍しますが、38歳の時、藩に海防政策を説き、それが理解されず藩籍を除かれて浪人となります。京都では転居を繰り返しながら過ごします。そして、ペリーの浦賀来航を契機に、江戸、水戸、福井、長州など全国へと奔走し、勤王論を説いて回わり、尊皇攘夷の先頭に立ちます。後に捕らわれる「安政の大獄」までの15~16年間、京都を拠点に活動。各地への遊説や交流により、各藩の志士たちに大きく影響を与えていきました。維新への道の第一歩を切り開いた偉人の一人と言えます。
難しい話をするのも何ですが、雲浜の思想は完結に述べると、
●開国の要求に屈すると日本は国家の威信を保てない(条約反対)
●孝明天皇自身が攘夷論なのだから、従うべき
●攘夷実行のためには幕府をこれに従わせなければならない
そうした外交問題が危機迫る中、14代将軍継嗣問題も同時に起こり、雲浜の周囲は次第に慌ただしくなります。雲浜を慕う志士たちの出入りも激しく、幕府に目を付けられてしまいます。それでも、雲浜は堂々と意見書を青蓮院宮に提出するなど、幕政を厳しく批判。そして大老・井伊直助が厳しい弾圧を決行、いわゆる「安政の大獄」です。雲浜は、その最初の捕縛者となった人物、激動の時代を駆け抜けました。取り調べを受けながら、京都から江戸へ護送され、約1年の牢生活の末、江戸で病死、45歳の生涯を閉じました。ちなみに吉田松陰が雲浜の救出計画を企てた(未遂)とも言われています。


現在も交通の要所である京都・烏丸御池の交差点に雲浜の最後の住まいがあった。それを示す石碑が建つ

京都・安祥院は「日限地蔵」も安置されている

雲浜の墓は江戸・京都・小浜と3カ所に。写真は京都の「安祥院」の墓地にある「雲浜先生之墓」。妻と息子も同寺で眠っている

雲浜8才で入学した藩校「順造館」の正門は現在、福井県立若狭高校に残る
写真提供:小浜市教育委員会文化課
さて、そんな雲浜の京都のスポットは幾つかあります。37歳の頃、雲浜は病気にかかり、生活が困窮。現在の高雄、そして一乗寺の葉山観音の小屋で細々と暮らしたとあります。その一乗寺の旧跡地は現在も観光客も少なく、寂しい場所にあり、大正時代に建てられた碑がひっそりと建っています。
そして、点々とした京都の最後の住まいとなる、現在の烏丸御池東側(国際マンガミュージアムの向かい側)に、「梅田雲浜邸址」の碑があります。ここは現在でも要所ですが、当時も各藩邸が周囲にあり、物流の盛んな木屋町にも近く雲浜の活動として頷けます。それゆえ余計に志士たちの出入りも目立ったのかもしれませんが…そして清水寺への参道、「日限地蔵」で知られる「安祥院」に雲浜の京都のお墓があります。(墓は東京・小浜にもあります)この寺に実は愛妻・信(信子)と長男も眠っているのです。
一方、写真で順次紹介していますが、ふるさとの小浜にも地元の偉人を称え、雲浜のゆかりのスポットが幾つか点在しています。生誕地には碑が、8才で入学した藩校「順造館」の正門は現在、県立若狭高校の一角に残り、面影を伝えています。

今回、ご紹介出来ませんでしたが、今度、東京・台東区ある海禅寺の雲浜のお墓参りに出かけてみます。そして機会があれば、小浜の海、「雲のような浜、どんな風景かな?」と思い描きながら、福井を旅してみたいなと思っています。
皆様も、この人こそ “真のヒーロー” と思う歴史人物の足跡を調べて旅へ出てみませんか?