風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
明治維新、日本人が世界で 見て!知って!学んで!得た尊いもの(2015年9月1日)
 

東京・四谷にある迎賓館・赤坂離宮は明治の総決算とも言われる
 先日、国宝・迎賓館「赤坂離宮」を見学してきた。ズゴカッタ…どうズゴカッタのか?を語ると今回、それで終わってしまうので控えたいが、一言「煌びやか」。絢爛豪華、別世界、日本ではないような錯覚に陥った一時だった。時々、テレビで首脳会議や晩餐会といった場面でお馴染みの赤坂離宮だが、想像をはるかに超えた煌びやかな内装に驚いた。各国首脳と総理大臣が握手を交わすシーンは何度か見た覚えがあるが、その部屋の広さ、壁面から天井へ至る装飾、調度品、空気感や重厚感は独特だった。年に一度?一般公開期間があり、事前申し込み制で誰でも無料で見学できるので是非、一度ご覧になられてみては?(ちなみに京都迎賓館も同様に一般公開します。同じ迎賓館でも、京都は全く違うスゴさ、日本らしさのある雅やかな“和”です)

 そんな赤坂離宮の解説書の中にこんな一文を見つけた。「日本最初の洋風宮殿は、文明開化により西洋の学術、文化を学んだ、いわば明治の総決算とも言われている」と。赤坂離宮が明治の総決算だとするならば、最初の一歩は何?…

 京都贔屓の私の頭にまず浮かんだのは、明治4年(1871年)に日本を出発した「岩倉使節団」の1年10ヶ月に及ぶアメリカ・ヨーロッパへの「視察」だったのではないか?と勝手に思っている。

 今回は、その岩倉使節団の正使・岩倉具視(いわくらともみ・1825~1883年)の縁の京都と使節団に関係する鹿児島(薩摩藩)の留学生の話をしようと思う。

岩倉具視、必ず来る!次のチャンスを待った5年間の幽棲宅跡
 

岩倉具視幽棲旧宅主屋。ここで5年間、静かに暮らすも坂本龍馬や大久保利通などが訪問。秘かに政治活動は続いていた

岩倉具視幽棲旧宅の敷地内にある国の登録有形文化財指定の対岳文庫。ここには遺品の他、明治維新関係文書などが展示保管されている

岩倉具視幽棲旧宅の敷地内にある遺髪塚
 平成生まれの若者には馴染みがないと思うが、1983年に500円玉が発行されるまで500円札という紙幣が流通していた(今でも紙幣として使用は可能だが発行はしていない)そこにデザインされていた人物こそ、晩年の岩倉具視である。岩倉具視は京都の公家で激動の幕末を生き抜いた代表的な政治家。朝廷内の尊攘派の台頭により蟄居、洛外追放の苦難もあったが、王政復古に尽力し、幕末から明治にかけて彼の活躍は評価されている。

 京都には岩倉具視が5年間隠棲した「岩倉具視幽棲旧宅」のほか縁のスポットはいくつかある。幽棲旧宅は国の指定史跡になっており主屋の他、貴重な縁の品々、史料を展示保存している対岳文庫(国登録有形文化財)、遺髪塚もあり誰でも見学できる。王政復古、明治維新の立役者の一人、また京都の復興に尽力した岩倉具視は京都人にはある意味で恩人でもある。

岩倉具視使節団、1年10ヶ月の欧米視察が近代化の第一歩
 
 岩倉具視47歳の明治4年(1871年)、明治政府は大使節団を海外派遣することを決め、正使として岩倉を任命した。「岩倉使節団」の誕生だ。目的は不平等条約改正のための予備交渉と各国の視察・交流。使節団は46名の正式メンバー、その侍従ら、そして女子5名を含む43人の留学生の総勢108人で構成され、海を渡った。1871年12月23日横浜出航、1873年9月13日横浜に帰国。当初の予定は10ヶ月だったが、結局、1年10ヶ月に及び、訪問国は12か国と言われている。正式メンバーには木戸孝允、大久保利通、伊藤博文ら。留学生の中には、帰国後、思想家・ジャーナリストとして活躍する中江兆民や津田塾大の創立者・津田梅子などがいる。

 どの国へ行き、何を見て、何を感じて、何を学んで得てきたか?帰国後、日本の近代化にどう影響を与えたか?などは専門の先生方が書籍を出版しているので、ご興味のある方は、是非、読んでみては。外交的な施設だけでなく、美術館や博物館や工場などあちらこちらを視察し、観光名所なども回っている。

 レディファーストに驚いたとか洋式のトイレがあまりにも綺麗で手を洗ったとか、パイナップルを初めて食べたとかエピソードも色々と伝わる。鎖国を終え、日本人が世界を観る、知る、学ぶ中で感じた感動や驚き、関心、日本との比較、その素直で率直な心情が読み取れて、なかなか面白い。

岩倉使節団のメンバーに、なんと薩摩藩の密航留学生がいた?!
 

「薩摩藩英国留学生記念館」は昨年7月オープン。薩摩藩が密かに英国に留学させた「薩摩スチューデント」と呼ばれる19人を紹介する記念館

鹿児島県・いちき串木野市羽島にある「薩摩藩英国留学生記念館」は美しい海に面した海岸に建つ


「薩摩藩英国留学生記念館」では事の経緯や背景、留学生たちの旅路、彼らの帰国後の活躍などが分かる貴重な資料を公開
 その岩倉使節団の中に、吉田清成(きよなり)という人物がいる。大蔵省から岩倉具視使節団に随行した一人だ。そして、もう一人、アメリカにいた畠山義成(よしなり)という人物は岩倉使節団と共に8年ぶりに帰国している。この二人、実は元薩摩藩士で、薩摩藩が渡航させた密航留学生なのである。

 岩倉使節団の出発より6年も前に、薩摩藩は選抜した19名の藩士たちを英国へ留学させている。目的は西洋の技術を学ぶこと。密航までさせて海を渡らせた、その背景には薩摩藩が経験した生麦事件、薩英戦争がきっかけであることは間違いない。「このままでは世界に取り残される」といち早く悟った薩摩藩が下した決断が「藩士を英国へ留学させる」であった。その経緯と留学生たちの活躍を紐解く上で、今回ご紹介したいのが、鹿児島県・いちき串木野市羽島にある「薩摩藩英国留学生記念館」だ。

 当記念館は昨年(2014年7月)にオープン。海の見える海岸沿いに建ち、赤レンガに和瓦の屋根という「薩摩式洋館」と呼ばれる美しい館。1階には留学の歴史背景や経緯などの展示ゾーンのほか、カフェ、ショップ、ライブラリーがあり、2階は留学の旅路、英国での状況、そして帰国後の彼らの活躍の展示。デッキからは命がけで彼らが出発した海が見下ろせ、激動の時代の一幕にタイムスリップしたような気分に浸れる。

 留学生19名それぞれの帰国後の活躍ぶりも記念館では紹介されているが、使節団に関係した2人の帰国後を紹介しよう。吉田清成は帰国後、米国特命全権公使として条約改正に専念。畠山義成は文部省を経て、東京開成学校(東京大学の前身)校長、東京書籍館、東京博物館館長に就任している。この2人だけでなく、19人の「薩摩スチューデント」たちの帰国後の活躍ぶりも合わせて、是非、記念館を訪れて、見聞してもらいたい。

 岩倉具視使節団が欧米から得てきたことは計り知れない。そこには技術的な近代化は勿論だが、精神性や風習、文化といった側面でも大きく影響を及ぼしたことであろう。京都贔屓の私には“日本の近代化の第一歩”である使節団の正使が京都・公家の岩倉具視であったことを誇りに思ったりする。そして、帰国後の岩倉具視が意見した京都御所保存計画、葵祭の再興に尽力したのは、単に郷土愛だけでなく、世界を観て、改めて日本の伝統、日本の祭、日本文化の素晴らしさ、守るべきものは守ると再認識したのではないか…と私は密かに確信を持って、そう思っている。

 薩摩藩英国留学生記念館写真提供:いちき串木野市役所観光交流課

岩倉具視幽棲旧宅
開館時間:9時~17時
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
入館料:大人300円
電話:075・781・7984
ホームページ
薩摩藩英国留学生記念館
開館時間:10時~17時
休館日:火曜日(祝日の場合は翌日)
入館料:大人300円
電話:0996・35・1865
ホームページ
プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京在住。京都市観光おもてなし大使・「首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザー」としてフリーで活動中。BS朝日「とっておきの京都」ブレーン、BS11「古地図で謎解き!にっぽん探究」京都担当、京都商工会議所講演会(東京会場)講師、朝日新聞デジタル「京都旅レシピ」コラム連載など。また中学校へ出向き修学旅行事前学習講義も行う。京都観光文化検定1級。京都市観光おもてなし大使ページ