


東京・四谷にある迎賓館・赤坂離宮は明治の総決算とも言われる
そんな赤坂離宮の解説書の中にこんな一文を見つけた。「日本最初の洋風宮殿は、文明開化により西洋の学術、文化を学んだ、いわば明治の総決算とも言われている」と。赤坂離宮が明治の総決算だとするならば、最初の一歩は何?…
京都贔屓の私の頭にまず浮かんだのは、明治4年(1871年)に日本を出発した「岩倉使節団」の1年10ヶ月に及ぶアメリカ・ヨーロッパへの「視察」だったのではないか?と勝手に思っている。
今回は、その岩倉使節団の正使・岩倉具視(いわくらともみ・1825~1883年)の縁の京都と使節団に関係する鹿児島(薩摩藩)の留学生の話をしようと思う。


岩倉具視幽棲旧宅主屋。ここで5年間、静かに暮らすも坂本龍馬や大久保利通などが訪問。秘かに政治活動は続いていた

岩倉具視幽棲旧宅の敷地内にある国の登録有形文化財指定の対岳文庫。ここには遺品の他、明治維新関係文書などが展示保管されている

岩倉具視幽棲旧宅の敷地内にある遺髪塚
京都には岩倉具視が5年間隠棲した「岩倉具視幽棲旧宅」のほか縁のスポットはいくつかある。幽棲旧宅は国の指定史跡になっており主屋の他、貴重な縁の品々、史料を展示保存している対岳文庫(国登録有形文化財)、遺髪塚もあり誰でも見学できる。王政復古、明治維新の立役者の一人、また京都の復興に尽力した岩倉具視は京都人にはある意味で恩人でもある。

どの国へ行き、何を見て、何を感じて、何を学んで得てきたか?帰国後、日本の近代化にどう影響を与えたか?などは専門の先生方が書籍を出版しているので、ご興味のある方は、是非、読んでみては。外交的な施設だけでなく、美術館や博物館や工場などあちらこちらを視察し、観光名所なども回っている。
レディファーストに驚いたとか洋式のトイレがあまりにも綺麗で手を洗ったとか、パイナップルを初めて食べたとかエピソードも色々と伝わる。鎖国を終え、日本人が世界を観る、知る、学ぶ中で感じた感動や驚き、関心、日本との比較、その素直で率直な心情が読み取れて、なかなか面白い。


「薩摩藩英国留学生記念館」は昨年7月オープン。薩摩藩が密かに英国に留学させた「薩摩スチューデント」と呼ばれる19人を紹介する記念館

鹿児島県・いちき串木野市羽島にある「薩摩藩英国留学生記念館」は美しい海に面した海岸に建つ


「薩摩藩英国留学生記念館」では事の経緯や背景、留学生たちの旅路、彼らの帰国後の活躍などが分かる貴重な資料を公開
岩倉使節団の出発より6年も前に、薩摩藩は選抜した19名の藩士たちを英国へ留学させている。目的は西洋の技術を学ぶこと。密航までさせて海を渡らせた、その背景には薩摩藩が経験した生麦事件、薩英戦争がきっかけであることは間違いない。「このままでは世界に取り残される」といち早く悟った薩摩藩が下した決断が「藩士を英国へ留学させる」であった。その経緯と留学生たちの活躍を紐解く上で、今回ご紹介したいのが、鹿児島県・いちき串木野市羽島にある「薩摩藩英国留学生記念館」だ。
当記念館は昨年(2014年7月)にオープン。海の見える海岸沿いに建ち、赤レンガに和瓦の屋根という「薩摩式洋館」と呼ばれる美しい館。1階には留学の歴史背景や経緯などの展示ゾーンのほか、カフェ、ショップ、ライブラリーがあり、2階は留学の旅路、英国での状況、そして帰国後の彼らの活躍の展示。デッキからは命がけで彼らが出発した海が見下ろせ、激動の時代の一幕にタイムスリップしたような気分に浸れる。
留学生19名それぞれの帰国後の活躍ぶりも記念館では紹介されているが、使節団に関係した2人の帰国後を紹介しよう。吉田清成は帰国後、米国特命全権公使として条約改正に専念。畠山義成は文部省を経て、東京開成学校(東京大学の前身)校長、東京書籍館、東京博物館館長に就任している。この2人だけでなく、19人の「薩摩スチューデント」たちの帰国後の活躍ぶりも合わせて、是非、記念館を訪れて、見聞してもらいたい。
岩倉具視使節団が欧米から得てきたことは計り知れない。そこには技術的な近代化は勿論だが、精神性や風習、文化といった側面でも大きく影響を及ぼしたことであろう。京都贔屓の私には“日本の近代化の第一歩”である使節団の正使が京都・公家の岩倉具視であったことを誇りに思ったりする。そして、帰国後の岩倉具視が意見した京都御所保存計画、葵祭の再興に尽力したのは、単に郷土愛だけでなく、世界を観て、改めて日本の伝統、日本の祭、日本文化の素晴らしさ、守るべきものは守ると再認識したのではないか…と私は密かに確信を持って、そう思っている。
薩摩藩英国留学生記念館写真提供:いちき串木野市役所観光交流課