風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
京都ファンの心ときめく パラダイス 横浜「三渓園」(2015年6月1日)
 

横浜「三渓園」は明治から大正にかけて生糸貿易で財をなした横浜の実業家・原三渓が造った日本庭園。自然豊かな園内には歴史的建造物を配置し「建築の博物館」とも称されている
 「いつでも行けるから…」と思う場所こそ、積極的に行くべきかもしれない。何故、今まで、そんな遠方でもないのに、行かないでいたのだろう…後悔。

 東京在住の私にとって、その場所とは“横浜・三渓園”だ。先月の「ラジオ塔」の取材時でさえ、横浜まで行ったのに「また今度にしよう」と先送りした。

 そんな私を三渓園に急に向かわせたきっかけは、ズバリ「豊臣秀吉の母・なか」との机上での出会いだ。「いつでも行ける」が「今日、行くぞ!」となった。そして、初めて行った三渓園には、素晴らしい建造物群と青紅葉の庭、季節の花々、そして清涼感があった。年間パスポートは良くありがちだが、施設には珍しい「回数券」が販売されている理由(わけ)が行って初めて、よく分かった。入園料大人500円、回数券は5枚綴りで2000円、1回お得だ。園を後にする時、「初めから5枚つづりの回数券にすれば良かったな…」と。

 …という訳で、今回は「横浜・三渓園の京都物語」をご紹介。

三渓園のシンボル「三重塔」のふるさと「木津川市加茂」
 

山上に建つ三重塔は京都府の南、奈良との県境にある木津川市加茂にあった旧燈明寺から移築されたもの。重要文化財指定

三重塔があった京都府木津川市加茂。現在は旧燈明寺の鎮守社であった御霊神社が残っている

京都府木津川市加茂の旧燈明寺跡地。現在は収蔵庫と鎮守社だけが残り、仏像数体は毎年11月3日に公開されている
 トップ掲載の写真の通り、大池を手前に、山上に建つ三重塔、これが「ザ・三渓園」という風景だ。三重塔は三渓園のランドマークとして存在し、現在、関東に存在する木造の塔としては最古らしい。1457年、室町時代の建造物で、三渓園に移築されたのは1914年、大正時代とのこと。「造られたのは、応仁の乱よりも前じゃん、凄いじゃん」と解説板の前で一人驚き、感動する私。
(「〇〇じゃん」って横浜弁?でしょうか?)

 この三重塔のふるさとは、京都府木津川市加茂にある御霊神社あたりだ。神社境内には「旧燈明寺」と解説板にあって、廃寺になっていることが分かる。実は本堂も三渓園内に移築されており、塔と同年の建立で、昭和に移築された。廃寺となり形跡もないが、寺の鎮守社であった社(御霊神社)と収蔵庫だけが、現在、残っている。収蔵庫には、旧燈明寺の仏像数体が安置されていて、現地の案内には年に一度、11月3日のみ公開とある。この11月の時期は、木津川市加茂エリアの寺院では一斉に特別公開が行われているので、他の寺院と合わせて拝観するのがお薦めだ。(海住山寺・岩船寺・浄瑠璃寺など)

「母・なか」への思いを伝える秀吉建立の貴重な建築物
 

三渓園にある「旧天瑞寺寿塔覆堂」は秀吉が母の寿塔を納めるために大徳寺山内に建立。秀吉が建てた確証のある数少ない建造物の一つで重要文化財に指定されている

大徳寺山内にある塔頭・龍翔寺は非公開。寺の敷地内に寿塔は現在も存在しているらしい。明治に売却されるまで天瑞寺はこの場所にあった
 さて、私を今回、三渓園へと導いた「豊臣秀吉の母・なか」の存在。秀吉は、相当なマザコンであったようで、天下人になってからは、「母・なか」を城に呼び寄せ、良かれと思う事は何でもしてあげていたようだ。一方、「なか」自身は田舎暮らしから、急にお城暮らしになったのが、大変窮屈だったようで、城の中でも畑仕事をしていたと文献にはある。その「なか」が、あるとき大病にかかり死期を悟ると、自分の墓、菩提寺を、そろそろ用意してほしいと秀吉に願い出る。早速、秀吉は大徳寺山内に「母・なか」のための寺を建立。すると、病気が治り、元気になった…という話が伝わる。この寺の名は「天瑞寺」と言い、寺らしからぬ、華やかで輝かしい本堂。その内部も金貼りの襖、豪華絢爛の障壁画が描かれてあったそうだ。後に亡くなった「なか」の遺骨は、この寺の墓塔(寿塔=生前に造られた墓)に埋納された。

 時が流れ、明治時代に大徳寺が困窮し、この「なか」の天瑞寺は売却。墓塔が収められていた廟堂(覆堂)も安価で売られてしまった。この廟堂は、その後、転々とし、現在、三渓園に移築され、重要文化財指定となっているのだ。ちなみに墓塔(寿塔)は大徳寺の塔頭・龍翔寺に現在もあるらしい(非公開)。

 最大のポイントは、この天瑞寺寿塔覆堂は天正19年(1591年)、確実に秀吉が建立したものだ、という事。“確実に”秀吉建立という確証のある建造物は残っていそうで、実は少ない。秀吉自身で壊したり、徳川の時代になると、豊臣色を徹底的に排除したため、壊されていることが多い。だから貴重。三渓園の風景に馴染んで、ひっそりと建っているものの、実は「スゴイ建物じゃん!」なのだ。点々とした間、良くぞ壊されず、そして現在、大切に管理されていて、本当に京都ファンとして嬉しい。三渓園さん、ありがとう!です。

 秀吉晩年の行動は理解しがたいが、母を思う息子の気持ち、畑仕事をしていた老婆が急に綺麗な着物を着させられて、「何もしなくて良いのです」とお姫様のような扱いを受けることとなった「母・なか」の戸惑いを想像すると、少しオーバーだが「人の幸せ」とは何か?という一つの家族ドラマを見ているような気がしてならない。

 三渓園には、この他にも、京都ゆかりの建造物が幾つも移築されている。緑豊かな美しい庭園の中に、大好きな京都が散りばめられていて、私にとっては一番近い“京都パラダイス”だった。「いつでも行ける」って先送りしてきたことを後悔。また秋に必ず行こう!っと。

 皆様も近場だからと「いつでも行ける」を「先送りしている」“気になる場所”がもし、あったら、今日!早速!お出掛けしてみては?

参考:上記以外の三渓園内にある京都のゆかりの建造物(伝承も含む)

  • 御門と海岸門=京都東山の西方寺より移築
  • 月華殿=京都・伏見城(家康再興の伏見城)にあった控え所
  • 金毛窟=床柱には大徳寺山門の古材が使われている伝承あり
  • 蓮華院=土間の太柱は平等院鳳凰堂の古材を使用したとされる
  • 聴秋閣=二条城内にあったと言われている楼閣
プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京生まれ、國學院大學卒業後、スポーツ新聞社を経て京都市へ転居。東京に戻り京都市の「京都館」勤務、2012年春退職。現在、首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザーとして活動中。BS朝日「京都1200年の旅」、「京都検定」講師。京都観光文化検定1級取得。「京都観光おもてなし大使」