風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
江戸時代の陶芸家・尾形乾山に恋をして…(2015年4月1日)
 

男性に「一目惚れ」をしたことがない私としてはあり得ること?!容姿は全く分からないのに、江戸時代の人物に恋をしています。非現実的ですが、もし会えたら「好きです」と言ってしまいそう。

その恋の相手は江戸時代の陶芸家・尾形乾山(おがたけんざん)。一般的には兄の尾形光琳が有名です。光琳の絵は歴史の教科書にも載っているので、皆さん御存じでしょう。その弟・乾山に今、恋の病。「あなたのことが知りたくて、分かりたくて」という一方的な片想い…。

…という、どうしようもない私的感情だけで、今回は“尾形乾山”の足跡を追い、西へ東へと面影を求めた「恋の追っかけレポート」をお届けします。

兄弟愛に溢れる 乾山と光琳とは?
 

京都・鳴滝の法蔵寺門前に建つ「尾形乾山陶窯址」。乾山はここに窯を開き、約13年間、製作活動した
尾形乾山(1663~1743年)は江戸時代の陶芸家です。京都有数の呉服商の三男として産まれ、光琳は5つ上の兄。裕福な幼少期でしたが、家業が傾き破たんし、兄は絵師として、乾山は陶芸家としての道を歩むことになります。この兄弟、性格も生き様の正反対。光琳は放蕩三昧、能が大好き、金と女にだらしなく、女性に訴訟を起こされた記録も残り、借金を繰り返し、ある意味で豪快な人生。でも、それはそれで芸術家としてカッコいい。

一方、乾山は父の残した遺産で若くして隠居。地味に暮らし、生涯独身。何とか陶芸家として歩もうとする誠実な人柄。困っている兄にお金を貸すも、時に「このままでは兄さんのためにならない」などと諭しつつ、兄の芸術的才能を誰よりも理解し尊敬する「出来た弟」。そして、私が最も心打たれるのは、この二人の兄弟愛、終生、本当に仲が良かったのです。

光琳が、パトロンを求め江戸に行き、京へ戻った頃、乾山も行き詰まっていたようで、仁和寺近くの鳴滝窯を閉め、兄の屋敷の近所(洛中)に引っ越します。この時期の二人の製作活動が最もエネルギッシュであり、主な作品として残ります。お互いの人生の節目、節目で助け合う兄弟。もし光琳が突然、59歳で没しなかったら、合作は、まだまだ世に残ったのでは…と思うと残念です。

京都を離れ、江戸へ向かう69歳の乾山の決心
 

東京・鶯谷ほど近くの入谷交差点にある「入谷乾山窯元之碑」。隣には「入谷朝顔発祥之地」が建つ。乾山は69歳から没するまで、このあたりで暮らした

「尾形乾山の墓碑」と「深省蹟」のある善養寺は、もともと寛永寺の末寺で台東区にあったが、山手線の工事に伴い、現在の西巣鴨に移転した
乾山は69歳にして京都を離れ、江戸で暮らし始めます。理由は一つではなく「京都の暮らしが厳しく」「自らのなせる不首尾により」「法親王のお誘い」など、様々な巡りあわせで江戸行きを決心。でも私は「兄(光琳)が、もう、この世にいない」という現実も理由の一つだったような気がしてなりません。

江戸では兄・光琳の面影を感じながら、乾山は入谷に窯を開き、陶芸を続けます。

この頃から乾山は積極的に絵を描くようになります。それも、絵がそれほど得意ではなった乾山に兄・光琳が絵のお手本帖を残していて、それを倣って描いたりしています。兄が弟を思う気持ちが溢れています。そして、乾山は現在の栃木・佐野にも1年余り暮らしていたという記録が残っています。佐野の名家から誘いを受けてのことであったようですが、佐野では陶芸を教えていたとも言われています(佐野乾山に関しての一連事件はここでは触れません)。

そして乾山は一度も京へ戻らず、江戸で没します、81歳。お墓は現在、京都・妙顕寺の塔頭・泉妙院と東京・西巣鴨にある善養寺にあります。

その81年の生涯を思うと光琳ほど豪快ではないけれど、何かしみじみとした思慮深さを感じます。晩年に江戸に行く決心、京都へ帰りたかっただろうなと(私が勝手に想像)思うと何とも切なく…。その証拠に江戸での作品には京都出身であることが分かるような落款が押してあり、京都への望郷と京都人である誇りさえも垣間見られ、胸を打たれます。

ポップでキュート 乾山作品の私的な魅力
実は正直、私は絵師が好きで、陶芸家に興味がありませんでした。でも乾山の作品だけは、色使いがポップで可愛いな…と(失礼ながら)以前から感じていました。江戸時代製作の懐石用食器なのに、ロールケーキやプリンなどの洋菓子を載せても「映える」お皿だなと思っていました(軽率な発言、お許しを)。

また他の陶芸家が「この作品の意図がオマエに理解できるのか?!」と、こちらの力量を試されているような威圧感があるのに対し、乾山にはそれがありません。勿論、乾山の作品にも和歌や物語を表現しているものも多く、知識があるにこしたことはありません。でも乾山の作品は私のような無知でも受け入れてくれるようで、何だか安心なのです。器だけでなく、絵も字もキュート。タンポポやツクシといった素朴な図案にも人柄がにじみ出ています。

乾山の作品はあちこちの美術館や展覧会でお目にかかれるので、是非、ご鑑賞ください。

今後の展覧会・主なもの

http://www.suntory.co.jp/sma/exhibit/2015_3/index.html
http://www.takashimaya.co.jp/mb/store/special/event/rimpa.html
http://www.nezu-muse.or.jp/jp/exhibition/next.html

追っかけレポート最終章 栃木へ 面影探し


乾山が滞在していた時代、既に佐野市内に鎮座していた朝日森天満宮(写真:上)と星宮神社(写真:下)。乾山もお参りしていたであろう

全国的に有名になった「佐野ラーメン」を昼食に、おやつにはB級グルメの佐野名物「いもフライ」をいただきました

乾山の歌碑が建つ壬生町から徒歩10分の「常楽寺」

乾山の歌碑には梟の絵と「ふくろ鳴く 壬生のうら山 時雨きて ミのきるむれの たちさわく見ゆ」と刻まれていた
私の追っかけレポート。乾山の生涯の中で、すでに京都の鳴滝窯跡碑、江戸の活動拠点、東京・入谷窯跡碑、そしてお墓は紹介しました。これ以外にも、京都・清水寺に「乾山記念碑」、東京・寛永寺にも碑がありますので、是非訪ねてください。

さて、1年余り暮らしたという栃木・佐野に今回、行ってきました。佐野には現在「ここです」という縁のスポットが調べた限りありません。当時、現在の佐野アウトレットのあたりに沼があり、渡良瀬川に繋がっていて、江戸からは水運で佐野へ来たであろうと推測されています。乾山が暮らしていた佐野の名家旧跡周辺から、恐らく散歩やお参りに出向いたであろう、当時、既に存在していた社寺を幾つか歩いてみました。佐野市内にある朝日森天満宮、「佐野厄除大師」で知られる惣宗寺、星宮神社などなど。景色は当時と今では相当違っているでしょうが、歩く距離感や季節感は同じはず。乾山に思いを寄せながら、全国に知られる「佐野ラーメン」を昼食に、おやつにはB級グルメの佐野名物「いもフライ」を頬張ってみました。

そしてJR佐野から電車で移動し、最終目的地である東武壬生町へ。壬生町の禅寺・常楽寺にある乾山の歌碑を目指しました。乾山は佐野から壬生町を訪れ、1か月ほど滞在したと乾山の日記に書かれてあります。歌碑は山門を入った、すぐ右手にありました。

歌は「ふくろ鳴く 壬生のうら山 時雨きて ミのきるむれの たちさわく見ゆ」、そして上部には梟の絵も刻まれていました。

栃木へ出向いて、ようやく乾山に出会えたようで、碑の前でしばらくジーン、感激の瞬間。歌碑は昭和に建てられたものですが、乾山訪問が確かだったことを後世に残す意義は大きいです。現に、私のようなファンが訪ねてくるのですから、建立して下さったご住職に感謝です。常楽寺は広々としていて、周囲も静かな、心休まる良いお寺でした。近隣には京都に縁のある慈覚大師円仁の誕生地の壬生寺や京都・壬生寺から勧請した地蔵尊「縄解地蔵」もありました。これらを見聞、お参りできたのも京都好きの私を乾山が導いてくれたのだなと勝手に思い込み、思い出深い栃木訪問となりました。

恋の病は続く 「琳派」を確立 尾形兄弟

さて今年「琳派400年」として京都を中心に記念行事や展示会、イベントが開催されています。「琳派」という定義は様々あるのですが、簡単に言うと明治時代に名付けられた日本美術のスタイル、美の系譜です。「400年」というのは本阿弥光悦が京都・鷹峯に芸術村を拓いて今年で400年ということ。

この「琳派400年」を一言、解説したいのですが、長くなるので今回は省略。

何が言いたいかと言うと、私が恋している尾形乾山も兄・光琳とともに「琳派」を確立した中心的、芸術家である、ということです(ちなみに「琳派」の琳は尾形光琳の琳)。

今回、深くは調べていませんが兄・光琳の研究は進んでいて一般の者でも書籍などである程度、知り得ることができるのですが、乾山の研究の余地がまだまだありそうなのです。彼の残した日記などの検証が、作品や足跡とともに明らかになって欲しい…と願うばかり。

「あなたのことが知りたくて」という私の恋心の行き場がなく、今日もまた、乾山の作品図録を眺めては溜息……恋の病は続く…

プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京生まれ、國學院大學卒業後、スポーツ新聞社を経て京都市へ転居。東京に戻り京都市の「京都館」勤務、2012年春退職。現在、首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザーとして活動中。BS朝日「京都1200年の旅」、「京都検定」講師。京都観光文化検定1級取得。「京都観光おもてなし大使」