風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
戦国武将・人気NO1の「真田幸村」の縁が京都にあるの?!(2014年12月1日)
 
 大変、私事ですが、先月都内で行われました「時代劇専門チャンネル・ファン感謝デー」に初参加してきました。自慢にはなりません? が、我が家は、時代劇専門チャネルが開設した当初からの視聴者。地上波やBSで観たい番組がない時は、必ず時代劇チャンネルと決まっています。父の時代劇好き、私が池波正太郎先生の大ファンということもあり視聴を続けているのですが、今回のファン感謝デーが「鬼平犯科帳」の作品上映、出演者のトークショーということで、足を運んだ次第です。伊三次役(俳優:三浦浩一さん)には会場入りの時に偶然会えて、とても素敵な方でありました。…それはさておき。

 池波正太郎先生は京都にもよくお見えになり、主に食のエッセイで沢山、京都のお店や宿を紹介されています。それも紹介したいのですが、今回は先生がお書きになられた代表作の一つ、時代小説「真田太平記」にヒントを得て、「真田幸村のゆかり」を、ご紹介したいと思います。

世界遺産・龍安寺に「真田幸村」の墓?!

沢山の観光客が訪れる龍安寺の石庭は枯山水庭園

石庭が表庭、その建物の裏には有名な銭形のつくばいがある

池を中心にグルリ1周できる龍安寺の回遊式庭園。四季折々の美しい景色に出会える。

樹が茂っていて見にくいが池に突き出している島がある、そこに真田幸村の墓(五輪塔)があるらしい(非公開)
 “石庭”で世界に知られる龍安寺、世界文化遺産の一つです。皆さんは龍安寺に行って、拝観料を払い、そのまま進み、雰囲気の良い石段を上り、靴を脱いで上がり、建物内の廊下を進み、方丈の石庭をしばらく腰かけて鑑賞し、石の数を数えたりしますね。「落ち着くな~」とか「人が多いな」など思いつつ、やれやれと立ち上がり、そのまま順路に従い、方丈裏に回り、あの有名な銭形のつくばいを見て、「あ、これ“吾唯足知”ね」と思い出口へ。

 靴を履いて、石段を下がり、もと来た道を戻り、出口へ。見ていると半分以上の拝観者が、目の前の池をグルリと一周せず、龍安寺を後にします。度々遭遇するのは、ガイドさん自身が「龍安寺は石庭だけだから、他に見る物はないので、これで駐車場に戻りましょう」と案内していることが、私は無念で仕方がありません。「おい、お~い、待て待て(と心の中で泣き叫ぶ私)」「時間がないので行きましょう」なら100歩譲って仕方がない、そんな行程を組んだが悪い、と諦めますが、「石庭だけ?見る物はない?」そんな紹介はいかがなものか?と思います。龍安寺の良さは、あの限られた空間にある枯山水の庭、それに対比するように堂々と緑豊かに存在する回遊式庭園、その総合的な美の物語にあるのです。目の前に広がる庭園の手入れの良さ、季節の美しさを鑑賞してこそ、さっき見た枯山水の素晴らしさが、より一層、心に沁みてくるというもの。あの庭園の池の名は「鏡容池(きょうようち)」と言い、四季折々の景色に出会える素晴らしい名庭です。

 つい、熱くなり庭の話が長くなりましたが本題に。途中、弁財天が祀られている辨天島(ここは橋を渡れてお参り可)、そして、その弁天島の西に突き出した島。ここにある五輪塔こそが、真田幸村の墓(非公開)と言われています。非公開なので、五輪塔であるようだ、としか言えませんが…

 「真田幸村の墓」が龍安寺にある、もしガイドさんが池を1周し、それを説明したら、恐らく「どうして龍安寺に?」と聞かれるはず。いよいよガイドさんの出番ですよね。

 私は旅の醍醐味の一つは遭遇する「?」を「!」を変えられる発見や感動がどれだけあるか…だと思っています。自分で見聞して知るもよし、そして地元の人やガイドさんから教わるのもよし、…であるわけで「!」が、旅の楽しさだと思います。

 「何故、大坂で戦死したはずの幸村の墓が?」まず、その五輪塔を所有している寺は龍安寺の塔頭「大珠院」という寺です。元々は市内にあったそうですが、室町時代に龍安寺境内に移転。しばらく荒れ果てていたこの寺を真田幸村の娘婿(幸村の七女・かねの主人)となった備前守・石河光吉が再建し、墓(供養墓)を建てたと言われています。ちなみに石河光吉は秀吉の家臣で犬山城主にもなった武将ですが、関ヶ原の戦いで敗走、その後、京都で剃髪し宗林と号していた茶人・商人であったようです。その経緯があって、今、龍安寺に幸村の墓と言われる五輪塔があるわけなのです。

簡単ですが…「真田幸村」という人物

和歌山県・高野山の麓、九度山町にある真田庵。父・昌幸はこの地で没し、幸村は14年間過ごした。写真提供:九度山町役場産業振興課
 今更ですが、真田幸村、この「幸村」という名は書状や史料にはなく、「信繁(のぶしげ)」というのが正しいのですが、このコラムでは「幸村」と呼ばせていただきます。

 生まれは信濃国(現:長野県)父の昌幸も武名高き武将。歴史上に現れてくるのは「関ケ原の戦い」。その戦いで東西に分れた真田兄弟、兄は東軍に付き勝利、幸村は父・昌幸と共に敗者となるものの、命だけは助けられます。有名な話の一つに、関ケ原に向かう徳川秀忠の軍を上田城で食い止め、遅刻させたエピソードですね。結局、父と幸村は敗者となったわけですが、その武勇伝は今も語り継がれています。関ヶ原の戦いの後、幸村は父と共に和歌山・九度山に蟄居を命じられ、そこで14年を過ごしています。現在も和歌山県九度山町には父と幸村が隠棲した跡地に建てられた善名称院・真田庵があります。

 そして時の流れと共に、再び幸村は歴史の舞台へ。真田幸村が不朽の武名を残した「大坂冬の陣、夏の陣」へ…という経緯です。

こんな京都の街中の片隅に「真田幸村の念持仏」が!!

街の中にひっそりと鳥居を構える「高松神明神社」

小さな地蔵堂の中に安置されている「幸村の知恵の地蔵尊」
 京都の街中、烏丸御池駅(からすまおいけ)から直ぐ、京都ガーデンホテルというホテルがあります。その近くに境内は小さいながらも歴史のある高松神明神社があります。観光客よりも地元に親しまれている開運厄除の神です。その境内の奥にひっそりと建つ地蔵堂。この地蔵堂に祀られている石の半跏座像は「幸村の知恵の地蔵尊」と呼ばれ、お堂の台石をさすり、子供の頭を撫でると知恵を授かると信仰されています。

 この地蔵さん、先ほど紹介した隠棲先であった和歌山県・九度山町にある真田庵に安置してあったお地蔵様で、幸村の念持仏であったと言われています。

 「それが何故、京都に?」江戸時代、この高松神明神社は真言宗のお寺だったのですが、当時の社僧が和歌山(当時は紀伊国)へ行った際、この念持仏を拝領し、京都に持ち帰ったとのこと。なるほど…!です。

 私はこのお地蔵様を知らずに、ふと神社に立ち寄ったのですが、街の中にひっそりと安置されていた「幸村のゆかり」に出会い、ちょっと感激!したことを覚えています。

池波正太郎作「真田太平記」を読んで、真田氏の郷、上田へ行こう!

長野県・上田市にある「池波正太郎真田太平記館」。真田氏の小説を書くために池波正太郎先生が取材を重ねていた「思い」が伝わってくる記念館。写真提供:池波正太郎真田太平記館
 さて、最後に真田の郷、長野県上田市を紹介します。私は「幸村」というよりも池波正太郎先生の足跡を追って全国を旅していた時期があり(追っかけの一種ですね)、その時に上田にも訪れました。池波先生が「真田太平記」をお書きになるために御取材なさっていた場所や立ち寄った店、別所温泉などに行き、とても楽しかった、美味しかったことが記憶に残っています。私の最大の目的地「池波正太郎真田太平記館」では池波先生が偲ばれる展示物も沢山あり、立ち去りがたかった思い出が…また上田に行きたいなと思っています。

 この他にも、上田市には真田氏館跡、真田氏記念公園などなど幸村ゆかりの見所が沢山ありますので、是非お出かけ下さい。

 ちなみに2016年(平成28)大河ドラマは真田幸村の生涯を描く、三谷幸喜脚本、堺雅人主演による「真田丸(さなだまる)」と決定しています。それも楽しみです。これを機会に池波ファンとしては、また池波先生の「真田太平記」が注目され、沢山の人々に読んでいただけたらいいな、そして私自身も数十年ぶりに、読み直してみようっと。

 皆様、一年、「京都物語」ご愛読ありがとうございました。
 また来年も「京都物語」をどうぞ、よろしくお願いいたします。
 では、良いお年をお迎えください。

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プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京生まれ、國學院大學卒業後、スポーツ新聞社を経て京都市へ転居。東京に戻り京都市の「京都館」勤務、2012年春退職。現在、首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザーとして活動中。BS朝日「京都1200年の旅」、「京都検定」講師。京都観光文化検定1級取得。「京都観光おもてなし大使」