風土47
~あなたの街の〝ゆかり〟を訪ねて~塩原直美の「あんな古都 こんな古都 京都物語」
~郷土に記念館のある京都ゆかりの江戸時代の偉人~(2014年7月1日)

 
京都の町に建つ石碑・像には京都人の誇りと畏敬の精神が宿る

江戸時代の日本古典研究家・学者、本居宣長が京都で修学したという縁の地に建つ石碑。こうした碑が京都の町中に沢山、建っている
 京都の町を歩いていると、あちらこちらに石碑・像や駒札が建っています。駒札には説明文があるので、その場ですぐに「そこが何か、どんな人物か」が分かります。しかし説明文が添えていないと、「誰?」「何?」となることがよくあります。「確か、日本史の資料集で見かけたような名前だな…」と。

 私が今、住む東京の史跡や旧跡には所在する地域の区の観光課が案内板を建てており、基礎的な知識は、その場で決着します。京都に建つ多くの石碑には、説明が添えてありません。自ら調べようとしない限り、宿題は残ります。自ら知り得る行為を果たして、ようやく一つの決着を迎えます。

 京都は史跡が多くて対応できない!石碑は誰でも建てられ管理は土地所有者だから…と、もしかしたら、それが現実的な事情なのかもしれません。でも、その不親切さ、不便さも京都の町の魅力でもあると私は思っています。そして、その場所にビルやマンションが新築されたとしても、工事が終わると石碑は元に戻され、中には新調されることもあります。“無くさず残す”のです。その地に刻まれた歴史に、今、そこに暮らす人の誇りと畏敬さえ感じます。多くを語らない碑や像を通じて、京都人の精神に、私は惹かれているのかもしれません。

 今の時代、親切、便利であることが最良という風潮があり、私もその恩恵にどっぷり浸かっている一人でありますが、その不親切さや不便さによって人は育ち、洞察や想像、知恵や考案するという力となるのではないか?と。

 前置きが長くなりましたが、今回は京都の町に刻まれた「誰だ?」に注目。沢山おられる中で、他府県出身者であり、郷土に個人記念館を構えているという条件を満たした偉人お二人に絞ります。

謎の自刃、幕末の志士へ影響を与えた高山彦九郎

京都・三条京阪駅の交差点の一角にある高山彦九郎の銅像は御所を向いて拝礼している姿
 このコラム16回目でも紹介したのですが、その時は「銅像」がテーマで簡単に切り上げてしまったので、改めて。

 その銅像を初めて見た時「銅像=立っている勇ましい姿」という概念を見事に打ち破られました。しかも正座!! 驚きと共に「何で正座?」でした。三条京阪駅の交差点に座る「高山彦九郎」の銅像です。誰だっけ?と思い、高校の教科書の中に、その名を探すと…備考欄にたった1行、載っていました。

 彦九郎は江戸時代中後期、尊皇論を説いて全国を旅した思想家です。現在の群馬県太田市、農家の生まれですが、18歳で学者を志し京都へ。生涯において京都には5度、1か月から長い時で2~3年滞在したとのこと。正座の意は、上洛の度に東海道の起終点・三条大橋のたもとから、天皇のおられる御所を向いて拝礼している姿、という訳です。

 彦九郎は生涯、四国以外の全国各地を回り、朝廷、天皇を尊ぶ思想を訴え続けます。各地に人脈があり、公家、商人、学者、文化人など幅広く5000人もの人々と交流、そこから得る情報力もありました。彦九郎を支援する人物は各地にいたようです。そして福岡・久留米で自刃します(没47歳)。その死には謎が残されたままですが、彦九郎の全国を奔走し、身を削って説いた尊王論、その生き様は後の幕末の志士たちに大きな影響を与えています。


群馬県太田市細谷にある太田市立「高山彦九郎記念館」(写真提供:太田市教育委員会)

「高山彦九郎記念館」には、ゆかりの旅道具、幅広い人脈との書簡、思いや訪問先を記した日記などが展示されている(写真提供:太田市教育委員会)
 現在は群馬県太田市細谷に「高山彦九郎記念館」が建てられています。記念館は書簡、日記、旅道具の展示を中心としています。是非、記念館を訪ね、“寛政の三奇人”とも言われる彦九郎の功績に触れてみてください。
多くの門弟を江戸で育て、京都で生涯を閉じた賢人・佐久間象山

三条小橋に架かる「象山遭難之地」碑への道標。碑を案内するための道標が建っているのは凄い!

「佐久間象山寓居之址」幕府に呼ばれ、数か月すごした木屋町の住まい。碑は現在、パーキング入口にひっそりと建ち、気が付く人も少ない
 前出の高山彦九郎像のある三条大橋を渡り、西へ行くと高瀬川に架かる三条小橋があります。その橋のたもとに「佐久間象山先生遭難之地 大村益次郎卿遭難之地 北へ約壱町」という道標があります。昔から三条通は交通の要。その地を訪ねる人があまりにも多いため建てられたのでしょうか?史跡を案内するための道標が建っていることが、まず凄い!

 その道標の通り、高瀬川沿いの木屋町通を北へしばらく歩くと、その遭難之碑に到着するのですが、その前に現在パーキングとなっている入口にひっそりと、「佐久間象山寓居之址」の碑も見つけることが出来ます。


御池通から木屋町通を北上、高瀬川沿いにある「佐久間象山先生遭難之地」

碑の中央にお顔も刻まれているが、碑の真下は川面なので近づけない
 佐久間象山は江戸時代後期の信州松代藩(現在の長野県)の武士、西洋学者。幕府より藩主が海防掛に任命されると象山は顧問となります。海防を説いた意見書「海防八策」が高い評価を受け、その名が世間に知られるように。江戸(現在の中央区)に兵学塾を開校し、西洋砲術、蘭学、海防論を教授するなど、教育者としても活躍します。この時の門弟は常時30~40人ほど、勝海舟、橋本佐内、坂本龍馬などがいることでも知られます。

 ちなみに象山の妻は勝海舟の妹です。しかし門弟の一人であった吉田松陰の密航事件に加担した疑いで塾は閉鎖。象山は幕府から国元に蟄居を命じられることになります。

 時代はペリー来航後、幕府が大きく揺れ始めた時期で、開国論、安政の大獄、尊皇攘夷派、公武合体など論争や弾圧、内乱となり、全国が混沌としている頃です。江戸もさることながら、特に朝廷の置かれている京都が歴史の舞台の中心となって行きます。

 そこで幕府は博学の佐久間象山の蟄居を解き、上洛を求め、彼の知識、見識を見込んで、知恵を借りようと求めます。象山が京都へ入ったのが1864年3月末、その博学が発揮されるはずが、約4か月後の7月11日、攘夷派によって暗殺され、52歳でこの世を去ります。その暗殺現場の地に「佐久間象山先生遭難之地」があります。

 その直前の6月に京都では池田屋事件が起きていました。象山を頼って呼び寄せた要人なのですから、もう少し警護ができなかったものか?と思いますが、誰も彼も、それどころではない時代だったのでしょう。

 この時代の理不尽さ、「もし、あの人物が生きていたなら」と悔やまれる人物は佐久間象山だけではありません。こうした碑に出会うと、幕末に散った命の無念さに、思いを寄せてしまいます。また特にこの暗殺場所が寓居の目の前であること、そして高瀬川に面して川のせせらぎ、周辺の木々を揺らす風の中、この風情が無常観を醸し出し、より一層、切なく、空しさをうみ、心に沁みます。


長野市松代町にある「象山記念館」。近くには「象山神社」や茶室「煙雨亭」など、ゆかりの場所も(写真提供:長野市教育委員会)

「象山記念館」には佐久間象山の座像や書簡などが展示されている(写真提供:長野市教育委員会)
 さて象山の故郷、長野市松代町の「象山記念館」には座像、書簡のほか、ゆかりの品々が展示されています。また京都木屋町にあった茶室を移転修復した「煙雨亭」や象山を祀った「象山神社」もあります。長野、江戸、京都に残るゆかりの地を訪ね、多くの優秀な門弟を育てた象山の面影を機会があれば追ってみてください。

 今回は郷土に個人記念館のある二人の江戸時代の人物にスポットを当てました。この二人、生きた時代も違い、思想や立場も違い、直接的な関連性は全くありませんが…調べて行くと二人を繋ぐキーマンは「吉田松陰」なのかも…と。この関連性は説なので紹介しませんが、冒頭でお話しした通り、これは私自身の宿題?です。思想や生き様の中には必ず人間連鎖があり、その命尽きても後世の人の魂の中で、その人は生き続け、受け継がれていくものだと感じました。この時代は特にそうした魂の灯が消えなかった時代だったのかもしれませんね。

 京都ゆかりの人物で個人記念館が郷土にある人物はまだ何人か居ますので、またの機会にご紹介します。

●高山彦九郎記念館
 最寄:東武伊勢崎線細谷駅下車、徒歩10分
 入館料一般100円。月休。9:30~16:30入館
 電話:0276-32-5632
●象山記念館
 最寄:長野駅から松代行バス 八十二銀行前下車、徒歩7分
 入館料一般250円。火休。9:00~16:30入館
 電話:026-278-2915
プロフィール:塩原直美(しおばらなおみ)
東京生まれ、國學院大學卒業後、スポーツ新聞社を経て京都市へ転居。東京に戻り京都市の「京都館」勤務、2012年春退職。現在、首都圏と京都を繋ぐ観光アドバイザーとして活動中。BS朝日「京都1200年の旅」、「京都検定」講師。京都観光文化検定1級取得。「京都観光おもてなし大使」